
皆さんはゲームに飽きているでしょうか。僕は、あるジャンルのゲームに飽きた自分に気づきました。僕は子供の頃からゲームをやりまくっている人間で、ポケモンやモンハン、また多くの洋ゲーを小中高とずっとプレイしていて、そしてすべて好きだったので、驚きです。なぜ飽きたのか、それについて少し雑ではありますが考察していこうと思います。(当然のことを言語化するだけかもしれません)
僕はゲームが好きな子供でした
まず、僕はゲームが好きです。子供の頃から一人で黙々でDSやWiiやPS3を遊んできて、もちろん地元の友達ともそれらのハードを使って一緒に遊んできました。
幼稚園の頃からもうすでにTVゲームを触っていて、10年以上画面に映る世界に夢中になっていました。(今のうちに断っておきますが、この記事は、ゲームをやめて外の世界に出ようという趣旨では全くないです)
一人で遊んでいても、ゲームの中のストーリーに夢中になっていて、一日1時間までねと言われる中での、その1時間は天国のようでした。
小学校でもゲームが好きで、友達のゲーム機と通信ケーブルをつないで遊んだり、僕の家は昔Wifiがなかったので、友達の家に長居してずっとゲームをしていました。
スポーツや、鬼ごっこやカードゲームなどもしてましたが、そういった遊びの中でもTVゲームは最上位に位置するものでした。
自分の家で一人プレイするときは、ゲーム内のキャラクターを育成し、友達と会うときはキャラの交換や対戦。それが何よりも楽しかったです。
中学でも同じようにしてました。塾で多少忙しくはなり、部活もありましたが、それでも時間を作ってはモンスターを狩っていました。
ゲームの話題がクラスから消えていく
僕は女子のTVゲーム事情には詳しくありませんし(女友達は昔から少なかった笑)、それぞれの家庭の事情やルールはもちろん把握できません。なので全員とは言えませんが、小学校の頃であれば、本当に多くの人がゲームにハマると思うんです。(特に公立の学校かな、友達とも集まりやすいし)
僕の時代(2020年現在で20代前半の世代)では、バラエティ番組の内容やクラスの誰々が付き合った、あの先生がやばい怒り方した、といった話題と同じ頻度で、あのゲームのここが面白いよね、このボスが倒せない、そういう話題がクラス内であがると思うんですよね。オタクだったり根暗なグループだけにとどまらず。
しかしそれは小学校の頃の話で、中学校になるとだんだんゲームの話題はフェードアウトしていき、次第にいわゆるオタクグループなど、一部の人達でだけ共有されるものになってくると思うんですよ。
もちろん世界的なヒット作が出ると、数週間はそのゲームの話題がクラスで頻繁にあがり、ボスの倒し方など、多くの人が語り合うかもしれないですが、コンスタントにゲームについて話す人の数は減ってくると思います。
僕は前述の通りゲームを続けたほうなので、周りの、ゲームをあまりやらなくなった人を見て感じたことなのですが、まあ普通に彼・彼女らは他にやりたいことができてやめてますよね、もしくはやらなきゃいけないことが増えて。
ゲーム以外のものごと
僕は中学の時、特にゲームをすること以外にやりたいことがなくて、部活も受験も読書もそこまで楽しくなかったんです。好きだったテニスやら理科の勉強も第二の趣味でしかなくて、第一の趣味はずっとゲームだったんですよね。
一方で小学校の時ゲーム好きだったのに、だんだんやらなくなったクラスメートは、サッカーにうちこんだり彼氏彼女といる時間が増えたり、親の教育方針か本人の意向かで、めちゃくちゃ勉強し始めたり、そういったことでゲームから離れていきました。
僕も実は去年、1年間、ゲームをプレイすることから離れていて、それは中学時代の彼・彼女らと同じく、他にやらなきゃいけないことや他にすごく楽しいことがあるから、やらなかったんです。ゲームが楽しいと分かっていても、他の事に脳の容量を使っていて、ゲームに向かない感じ。というより、自分でセーブかけてる感じですね。集中するために。
特定のジャンル【オープンワールド】
でも、オープンワールドのゲームに関しては、3年前からやらなくなっていたんです。他のゲームは面白く感じるのに、壮大なフィールドを持つオープンワールドだけ、なぜか。
これクリアしてゲーム内で何か手に入れて、何になるんだろう、そう思うようになってしまったんです。
忙しかった受験期や、映画鑑賞・読書が最大の趣味だった高校時代でさえそんな感情を持つことはなかったです。
何か現実で得られるわけじゃないけど、壮大なファンタジーやディストピアの世界観に浸って、難しい局面を頭使ってクリアして、そこには達成感や没入感、何か特別な楽しさが昔はあったはずなんです。
何が他のジャンルの事情と違うんだろう、僕は今日、ずっと考えていました。
舞台が現実世界・自分が主人公
あ、そうか。僕が最近取り組んでいた、海外でのボランティアや英会話の練習、ブログの執筆、また自分のキャリアをどうするのかうーんうーんと考えていくこと、そういったことは受動的なものじゃなくて能動的なものなんです。大学1~3年で書いていた小説・築いてきた人間関係もそう。つまり、これが以前との相違点で、自分の中でレベルアップが感じられるし、自分なりのストーリーが出来上がってきた、ということ。
小中学生の頃は成功体験があまりなくて、また自分はこれが好きでこういう行動をしてる、というものがゲームプレイ以外なかったんです。だからゲームを通して、好きになれるキャラに没入してたんですよね。成功体験をゲームの中でつくって、その中でストーリーを積み上げてました。自分の人形としてやっていたので、キャラクリエイトができる、ストーリーに幅があって、つまり自分の選択次第で世界が変わり、また続行不可能にならないくらいの難易度のゲーム、を選んでプレイしてました。
今は自分をゲーム化できてるから、そういったTVゲームをやろうと思わないのか、これが主人公をもう一人の自分として育てられるゲーム(僕の場合はエルダースクロールズ)に飽きる一つのタイミングなのか、と考えました。
箱庭は必要だった
ただ、だからと言って、自分の理想の人形が作れるような類のTVゲームソフトが現実での成長を阻害する、だからやめた方がいい、かというと、僕はそういったことを言いたいわけではなく。
というのも、僕はそういったゲームソフトがなければ、精神的にきつかった時期が何度かあったと思います。
友人や家族との折り合いがすこぶる悪い時や、試験の成績が努力量に反して悪かった時、体調がすぐれない時、そういった色々な嫌なことが重なった時に、オープンワールドの世界で自分を投影したキャラを操作して、そこに嫌な気分を持った自分を没入させていき、そして存分に異世界で楽しんで現実に帰ってきた時には、少し気楽になっていた気がするんですよね。向き合わなきゃいけない現実が変わるわけではないんですけど、現実をとらえる自分の視界が少し明るくなる、というか。
それは、当時の僕にとってたまたまTVゲームだっただけで、映画や料理や漫画やYouTube、誰かとのおしゃべりでもよかったんです。とにかくそういったある種の現実逃避がそれぞれ必要な時期があると思います。逃げは良くないだろ、と言う人もいそうですが、まあ少なくとも僕には必要だったので、ゲームにとことんハマって悪かった、時間を無駄にしたとは思わないです。むしろゲームはそういったツールの中では最高級だと思いますし、VRならなおさらですね、有意義な時間でした。
ただ、今はオープンワールドゲームを手段にして現実逃避をする必要がない、自分が好きだと思えるストーリーを現実になんとか作り出せている状態。
何らかのコンテンツの中の理想の人形と、現実でのどうしようもない自分、という二項対立がなくなり、現実での自分を認めることができた時に、自分にとっての現実逃避は必要なくなり、また不可能なものとなっていくのかもしれません。だからこそ、オープンワールドのゲームして何になるんだ、と僕は思ったのでしょう。
そして今でも、ゲーム自体は大好きです。オープンワールド系はノスタルジーを感じるという意味合いで今でも好きですし、つい最近はPSnowを利用してオブリビオンをプレイしました。他にも、最近はすぐクリアできるライトなゲーム、インディーズゲームにハマっています。